カテゴリ:旅行・観光
海外向けに日本の地方の魅力を発信するYoutuber、櫻井亮太郎さん。櫻井さんのYoutubeチャンネルには13万人もの方が登録しています。
仙台市のご出身で、高校からアメリカの高校に通い、現在は日本の地方の魅力を海外に発信している櫻井さんの物語を前後編に分けてお届けします。前編では、櫻井さんがなぜ高校から海外に行き、日本に戻ってきたのか、そのヒストリーに迫りました。
◆高校からアメリカへ
私は仙台市出身で、中学卒業後に単身アメリカに渡り、高校から海外で過ごしてきました。そのきっかけになったのが、中学2年生の時、家の近くに住んでいたポーランド人の同い年の女の子と知り合ったことでした。その子と英語でお話をしていると、英語で話すことが楽しくなりました。
それから、アメリカの高校を舞台にした映画を見るとすごく「かっこいいな」と思えたんですよね。広いカフェテリア(食堂)があり、アメリカン・フットボールのチームがあり、高校対抗戦があり、チアリーダーがそれを応援しているという世界を華やかに感じました。
逆に日本の中学校に通いながらコンプレックスのようなものも抱えていました。中学生の当時、クラスの人気者はお兄さんやお姉さんがいた人。そういう人が音楽とかファッションとか、流行やトレンドのものを持ち込んで人気者になっていた。私は長男だったこともあり流行の情報も持っておらず、なかなかクラスの人気者にはなれませんでした。
当時、英語は好きでしたが、ものすごく話せるわけではなくて、「英語が得意」くらい。それでも何か「壁」を破りたくて、アメリカに行くことを決めて、1989年からアメリカの高校に通いました。最初は全くついていくことができませんでした。授業もわからないし、テストなんかは、問題の意味から全く分からない。でも逆に数学なんかは日本の教育の方がしっかりしていて自分の方ができたりもする。そうしていると、徐々に溶け込むことができました。
アメリカは16歳から車の運転が許されているので、高校の最後は自分で車を運転して学校に通っていました。こういう風になりたい、ということをあきらめず、「どうなればできるんだろう」と考えていたからこそできたことなのかもしれません。
◆日本に帰ることを決断
そこからイギリス・ロンドンの大学に行き、ドイツ、オーストラリアで仕事をしてきました。日本に帰ろうかなと思ったのは、オーストラリアにいた時。高校で日本を飛び出してから数えてちょうど10年になるタイミングでもありました。
そこで、 「あ、自分は日本人ではなくなっている」と気づいたんです。
当時、インターネットは今のように普及しておらず、海外にいた私は日本の情報がわからず、浦島太郎状態。日本の情報はシドニーに合った日本人向けのフリーペーパーくらいでしか手に入りませんでした。
逆に、海外の常識が当たり前になっていきました。例えば、LGBTQのようなジェンダーのこと、動物性の食品を使わないビーガン料理といった食文化のことは海外ではよく知られていたので、自分の中で当たり前になっていきました。
しかし、日本ではまだまだ一般的ではなく、たまに日本に帰ってそのことを日本人に話すと驚かれたのです。そういうところからも、徐々に私自身が海外の文化に寛容になり、欧米化していることに気づきました。そう気づいてしまうと、何か自分が「ニセモノの日本人」のように思えてしまいました。だからこそ自分自身が「日本人である」ということの確認をしたかったのです。そこで、日本に戻ることを決め、1999年に日本に戻って。東京の金融機関に勤めました。
◆取り組みのきっかけ
今の仕事につながるきっかけは、このころです。当時、東京に住んでいましたが、自分の車を地元の仙台に置いていて、1か月に1回くらい帰って、その車を運転して東北の各地を回ってみたのです。オープンカーだったので自然を感じながら、色々な場所を回りました。蔵王の樹氷、弘前の桜、福島・大内宿でねぎ一本で食べる「ねぎそば」…東北各地を旅しながら、東北の自然や食にものすごく可能性を感じました。私は海外33か国に行ったことがありますが、「世界と勝負できる」と確信したのです。
こんな素敵な地方に身を置きたい、と思い、2006年、32歳の時に故郷の仙台で起業して「株式会社ライフブリッジ」を立ち上げました。そして日本の良さ、特に東北地方のすばらしさを海外に伝えるために活動を続けてきました。
あなたが「文化の違い」を感じた瞬間はどんな瞬間ですか?理由とともに答えてみよう。
写真・動画提供:櫻井さん
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